師範学校豫科生の思い出 その5

3 後輩のいない二年生の悪たれ寮生

 

二年生になり、「ねじり鉢巻」で猛勉強もしていたが、相も変わらず、

食料事情が悪かった為に、我慢が出来ずに、悪いとは知乍ら、

次の様なことをしていたのである。

今にして思えば、心からお許しを願いたいと思うのである。

 

あまりの空腹に耐え兼ねて、「海岸町(地名)」へ「イカ」を盗みに行くことにした。

誰が偵察してきたのか、「生イカ」が、「すだれ」にかけて、

いっぱい干してあるという。

 

忽ち、「特攻隊」が編成され、夜、生イカをたくさん釣って帰って来た。

 

それッ!とばかりに、石炭ストーブで焼いて、むしゃむしゃと食ったのであるが、

夜中、何となく吐き気がして、中庭に出たら、あっちにもこっちにもいる事、

いる事、天罰てきめん、全員が腹を抱え、二つ折りになって吐いていたのである。

 

その日、朝食を採らずに、午前中の授業を終え、昼食のために寮に戻る時、

ふらふらになってしまった少年は、廊下の壁を伝わりながら、

漸く寮に辿り着いたのである。

 

食わねばよかったのにと思ったが、仕方が無かった。

 

体育の時に、力一杯走り、急に方向転換し、「戻れ!」等の号令をされる物なら、

腹が減っているのに、死ぬ思いで辛かった。

 

ある時、五稜郭駅に「サツマイモ」が運ばれて来て、野積みにされているとの

情報が入り、それを、「掻っ払ってきて食うベー」という事になり、

少年は、三人の特攻隊に志願し、夜陰にまみれて出かけた。

 

駅構内の照明に人影が見えたが、見張りの一人が

「よし、やれ!」の合図をしたので「ソレッ!」とばかりに

風呂敷にはち切れんばかりに詰め込んで、一目散に逃げ帰った。

 

皆で焼いて食って見たが、腐りかけていた「サツマイモ」は食えた物ではなかった。

 

 

南寮の近くに「キャベツ畑」があった。

空きっ腹を抱えた一人が、「おいっ!あのキャベツを味噌汁にして食うベー」という。

 

忽ち、衆議一決、炊事委員をちょろまかして食料倉庫から「味噌」を持ち出す者、

キャベツを掻っ払って来て刻む者と、見事な連携プレーで、

あっという間に「キャベツの味噌汁」が出来上がり、只、ガブガブと腹に流し込んだ。

 

翌朝、昨夜の諸悪は忽ち露見するところとなり、キャベツ畑の主からは、

「2、3個欲しいと言えば黙って上げるものを、寄ってたかって、

盗んでいくとは、何事かッ!」と怒鳴り込まれるものの、

舎監からはこっ酷くどやされるやら、酷い目にあった。

 

少年は、「やっぱり、それが正論だなアー」と返す言葉も無く、

恥じ入ってしまった。

 

腹も減ってはいたが、学生服にクタクタになった帽子をかぶり、

汚い手ぬぐいを腰にぶら下げ、左脇には分厚い参考書を挟み、足だを履いた、

余りよくない「いでたち」で、電車に乗り、「大門」辺りを得意になって

のし歩いていた「蛮カラ」風とそれへの甘えが、当時の学生たちには

まだ残っていたのである。

 

ある種の「群集心理」で、悪い事とは百も承知の寮生活であった。

 

今思えば、誠に他愛のない事であった。

学校も寮生を抱えながら、入学式を五月十五日にしたり、

夏休みも七月十五日から八月三十一日までだったり、食料不足の為に

何時寮が閉鎖になるか、全く見通しが効かなかったので、そうせざるを

得なかったのであろう。

 

当時は、函館の港に、外地引揚げ船で、大きな荷物を背負った多くの人々が、

各港へ帰って来たので、少年達は、函館の港に、外地引揚援護局の手伝いに

行ったりもした。

 

その時、一緒にいたある紳士に「鶴亀算」の問題を出され、

手早く立式をして、次に解こうとしたら、傍で見ていたその紳士、

「ああ、よしッ解ったッ!」と言われ、得意になったりもしたが、

当時の日本は、特に食料事業が最悪だったのである。

 

 

戦後間もないこの頃は、生活に必要なあらゆる物質が不足し、

一般の家庭でも食料不足であったので、

ましてや寮の生活なんて哀れな物であった。

 

二十四年頃、緊急の食料援助で、カナダから小麦粉が輸入されてから、

「スイトーン」が食べられる様になり、少しずつ、

食料事情も良くなっていったのである。