師範学校豫科生の思い出 その2
2 忘れられない豫科一年生
当時の師範学校は、第一が札幌、第二が函館、第三が旭川であり、
それぞれ「北海道第一師範学校」、「北海道第二師範学校」等と呼び、
本科と豫科の二部制であり、函館の場合は、豫科の場合を略称して、
「北二師豫科」と呼んでいた。
桐花寮と呼ばれる寄宿舎があり、「北寮」には本科生が、
「南寮」には豫科生が入っていた。
入学式終了後、校舎の裏側にある「南寮」に連れられて行った。
丁度、昼食時だったので「寮の飯」を見たら、麦の入った飯が丼一杯に、
煮付けたホッケが一匹、皿にゴロンと載っていた。
しかし、この昼食は、当時の寮の食事としては、破格の大盤振舞いで、
その後の食事でも遂に見られなかったし、
その日の夕方には「何、これっ!」と驚く様に急変したのである。
二十坪程の部屋の三分の二は畳で、六人ずつ頭を付き合わせて寝るのであるが、
畳の表はボロボロで、あまりに酷いので、布団を包んで来た
川崎船の帆を下敷きにして寝る事にした。
一室に十二人ずつ割り当てられ、各部屋には、
三年生の室長が付いていて、毎日の炊事や掃除当番、外出、外泊、帰省、
学習時間、門限、生活規則等「がんじがらめ」の諸規則を言い渡された。
朝の「起床!」から、夜の「点呼!」、「消灯!」まで号令がかかるので、
「小軍隊」の様である。
「舎監」と呼ばれる先生が、午後八時頃「点呼」の為、
各室を巡回して来るが、室長は、「○○以下、○○名、異常ありません!」
式に報告し、「舎監」から諸注意を受けると言う次第である。
この様な事は、「寮風維持会」の役員会の生徒(二才上の上級生)
が大きな役割を担っていたのであるが、余り長くは続かなかった様である。
入学して間もないある日の事、一才上の上級生三人程が、
休み時間にどかどかと教室へやって来て、一人が黒板に、
寮歌を三番まで書き、「これを写して、暗記しておけ!」、
「○○日に、五稜郭公園で練習をするから、午後○○までに全員集合するように!」
と威張り腐った口調で言ってのけたのである。
当時、寮生の一年生全員が駆り出されて、公園での練習が始まった。
二重、三重に丸く輪を作り、寮歌に合わせて手を叩き、
体を揺すり乍ら、躍る様に廻るのである。
曲等教わる訳でも無く、飛び跳ねる様な格好も、要所、要所に入っている
上級生の真似をしながら、只口を金魚の様に、パクパクさせるだけで、
寮歌などとは凡そ縁遠いものであった。
彼等は、一年生の周りの要所、要所で睨み乍ら、
「こらッ!大声を出せッ!」
「曲なんかどうでもいいんだ!ただ、怒鳴るんだ!」
と口々に怒鳴るのである。
多くの客で賑わう公園のド真ん中で、全くいい「ツラの皮」である。
しかも、これを何日も何日も繰り返したのである。
「明日の朝、○○時に、○○部の選手が遠征する。
〇時に全員駅前に集合の事ッ!」と言われ、
眠い目をこすりながら電車に乗り、駅前に並ぶ。
リーダーが叫ぶ!
「応援歌ーッ!第一ーッ!そーれーッ!」
「巴湾の水の清を掬い、亀田の森の霊を採り、白一線の気は高く……♪♪」
「フレッ!フレッ!フレーッ!(二回繰り返し)」、
その後には「拍手ッ!」となる。
多数の人々が振り返る。
怠け心を出して、寮の便所にでも隠れ様ものなら、忽ちつまみ出されて、
殴られるのが落ちである。
当時は、政府から支給される二百円の「給費」を貰っていたが、
うどん一杯を食べ、映画を一本見れば、吹っ飛んでしまった。
昔は、こんな額でも諸経費を払って間に合ったんだろうかと思った。
入学したのは、二級であったから、約百名位の同級生がいたが、
市内からの通学生、下宿する者や親戚から通学する者等が居たから、
一年生の寮生は、凡そ三十人位でなかったろうか。