師範学校豫科生の思い出 その4

もう六月だというのに、その寒さは一体どうした事か。

 

 

朝の雑巾がけで、あの「シンパレ」(霜焼け)が顔を出し、

今まで足の指だけだったのに、両手の指まであがり、

寮友の誰もがそんな事はないのにどうしてだろう。

 

薬も包帯も無く、赤く腫れ上がり、痒くて、痛くてやり切れなかった。

 

しかし、毎日、毎日、冷たい水で、床の雑巾掛けや食器洗いはしなければない。

 

その内に、指の皮が剥けて、五本共ぐちゃぐちゃである。

 

各指にチリ紙を巻いて見たが、何の効果も無かった。

 

教科書とノートを、二つ折りにし座布団に挟み、

教室へ行くのであるが、授業中も、各指共が一斉に騒ぎ出すので、

気が狂いそうである。

 

友人達に、「その指、どうした?」と聞かれるのが恥ずかしかった。

 

次兄に「手や足の指が腐ってしまった事」を手紙で知らせたら、

直ぐに、「身欠きにしん」を送って呉れたので、

ホーイ、ホーイと食って見たが、全く効かなかった。

 

 

この指の腐れは、その年に一回だけで、その後は、全く何事も無かった。

 

 

そんなに冷たい目にあってもである。

そして、こんな食糧事情が毎日、毎日続いたのである。

 

戦後のあの苦しい食料事業は、貧弱な農業事業よりなかった日本では、

国民はもとより、樺太、朝鮮、志那、シベリアから引き揚げてきた

何十万人もの人々を食わして行く為には、

国としても、緊急の「大ごと」だった。

 

十四、五才位の食べ盛りの少年達に取っては、それは長く、辛かった思い出である。

 

 

 当時、予科の上級生は英会話はペラペラで、少年は、

「ハアッ、大したもんだなあ、俺なんか、出来るようになるんだべかーッ」

と中身なんか全く分からないのに、妙に感心してしまった。

 

英語の単語には、発音しない「文字」があるのには驚いた。

 

誰に聞いても「英語とは、そんな物だ」としか答えない。

 

上級生に「九科目の内、五十点未満の赤点を二科目取ったら落第だぞ!」と

脅され、暗く、寒くて、手足の指は腐った、腹を減らした部屋で、

ドテラにくるまった少年は、

「やっぱり、学校なんか来るんでなかったなー、なんぼ船酔いしてでも、

漁師の方がまだ増しだ、家にいれば、戸棚を開ければ、何か、

食う物があるし、それに、勉強だって付いて行けるべかー」と

弱気になる一方であった。

 

 

しかし、今更、「止めました」と、どの面下げて家に帰れようか、

これはやっぱり、やらねば成るまいなあーと自らを、

鞭打つ以外に、方法が無いなーと思った。

 

 

「こらッ!下の部屋ッ!」

 

二階の上級生が窓を開け、下の下級生に怒鳴りかけるのである。

 

下の一年生が「ハーイッ!」とばかり、窓から顔を出さないと

後で酷い目にあう。

 

 

「上に上がって来い!」

 

と言われた少年は、急いで二階の部屋に走った。

 

入り口でノックをして中に入り、

 

「○○室の○○が参りましたッ!」

 

「よし、ここへ来いッ!お前なあ、亀田の電停まで行って、これをドンにして来い」

 

「ハイッ、分かりました!」と言う具合に、使い走りを命ずるのである。

 

「これを選択しておけ!」

「飯を炊いて来い!」

「米を見つけて来い!」

「金を貸せ!」

と矢鱈に注文が多いのには閉口する。

 

誰かが、何処からか持って来た米を炊く時、

金属で出来た洗面器を使用するのであるが、それは先程「フンドシ」を

洗っていた事等は、一向にお構いなしである。

 

しかし、流石に、底や縁に付いた「こげめし」の所だけは除いていたから、

皆の衆は、その洗面器の状況に承知していた筈である。

 

寮の壁版がこっそり剥がされては舎監に知れ、

しこたま「説教」を食らったりもした。