師範学校豫科生の思い出 

1 旅立ちの日

 

 終戦の時、高等科二年生だった少年は、

卒業後、家業である漁業の手伝いをしたり、電灯をつける為、

東京の「測量技師」にくっついて、電柱を立てる場所の測量をしたり、

あの重い電柱を四人で、凸凹の畑の上を、目から「クチュクチュ」あぶくが出るくらい

踏ん張り乍ら運ぶ作業であった。

 

 

一年間こうして働いてから、師範学校の豫科の受験をした方が、

学校に行きたいと、親には言いやすいとの打算があったからで、

そうでもしない限り、「非常時」みたいな終戦後に、

学校へ行くなんてとても言い出せなかったのである。

 

 

そして、遂に、昭和二十二年に受験はしたが、その合格通知が中々来ない。

五月に入ってから漸く来た。

 

入学案内書には、「入寮希望者は、粉類一斗を持参すること」とあった。

これは、入寮時の一回限りなのか、それとも毎月納入するのか二通りに

解釈されるので、色々心配もしたが、入寮時の一回限りと解釈し、

澱粉一斗を持参する事にした。

 

五月十五日の師範学校豫科の入学式の為、十三日に出発する事にした。

四月から毎日待っていた入学式である。

 

何となく旅たちの雰囲気の中で、もう後戻りが出来ない運命の糸に引かれる思いで、

少年はやや緊張気味であった。

 

父は、馬の背に布団一組、澱粉一斗、僅かな身の回り品を括りつけた。

 

大澤駅まで三十数キロの道程を父と歩くのである。

バスが通っているわけでもなく、只歩くより方法が無かったのである。

「奥末の沢」(地名、以下同じ)、「二越の坂」を超え、

「江良町(後に江良と改名)」、「清部」、「茂草」、「静浦(雨垂石)」、

「赤神」、「札前」、「館浜」、「建石野」、「唐津」、「松前」、

「及部」を通って、漸く大澤駅に辿りついた。

 

 

片道八時間以上も、少年は只黙々と歩いた。

 

僅か二か月前、受験の為に歩いた時の猛吹雪の事は、想像も出来ない程

穏やかな日和であった。

 

大澤駅で布団は「チッキ」にし、乗車券を買い、懐には、何がしかの

小遣い銭が、しっかりと仕舞われていた。

 

 

発車までに、大分時間があったので、

「今直ぐ帰れば、少しでも早く家に着くから、もう帰って……」と言ったが、

父は、何も言わずに黙っていた。

 

 

静かに滑り出した汽車のデッキに立った少年は、

見送る父の姿が次第に小さくなるにつれ、目が霞んでいった。

 

※チッキ……鉄道などが旅客から手荷物を預かって輸送する時の引換券。転じて、手荷物として輸送すること。